2010年06月02日
ブログ、アメブロで公開しています。
宮岡和宏のブログは現在アメブロで公開しています。
ご興味のある方はこちらをご覧ください。
アメブロのほうはタロットからの気づきや、タロットから得られる日々の対処方法(心と現実面)などを書いています。
また、特に私の講座などでタロットを学習された方には、リーディングのヒントなども書いておりますので、よろしければご訪問ください。
なお、このブログ「タロティストな日々」は今後リーディングケースのご紹介や、アメブロでは書かなかった出来事や思いなどつづっていけたらと考えております。
今後ともよろしくお願いいたします。
投稿者 miyaoka : 09:45 | コメント (0)
2009年12月31日
タロットアドバイス終了のお知らせ
しばらく続けておりました毎日の「タロットアドバイス」ですが、12/31をもって終わりにさせていただきます。ありがとうございました。なお、この「タロティストな日々」についてはいずれ何らかの形で再開したいと考えております。
投稿者 miyaoka : 01:27 | コメント (0)
2009年01月07日
現在ブログはミクシィにて公開中です。
ブログは現在ミクシィにて「日記」としてを書かせてもらっております。主にタロットの話題が中心です。講義で語った内容のフォローや、新しい気づきなどをつらつらと書かせていただいております。
リーディングを当方で受けられた方や講義を受講された方などで、ご興味のある方にはご招待もしくはご紹介申し上げますので、当HPの「お問合せ」かここにコメントするなどしてご連絡ください。(面識のある方はマイミクご招待、面識のない方はサイトご紹介という形になります)
投稿者 miyaoka : 12:21 | コメント (0)
2008年02月08日
学びへの姿勢
こういう仕事をしていると、やはりスキルアップには関心が行くものです。しかし最近よく感じるのですが、あまりにスキルや知識の向上にこだわり過ぎて、バランスを崩してしまっている人も多いのではないでしょうか。
特に精神世界の方面に興味のある方にその傾向は見受けられる気がします。それでもまだ、「スキルを磨くこと」「その質を上げること」について、はっきりと目的意識がある方はよいのですが、ただ単に何をしたいのかよくわからないまま、いわゆる「自分探し」の過程として、とにかく興味のあるものは学んでおこう・・・という感じでいろいろ手をつけてしまいますと、まさに袋小路に陥ってしまう危険性さえあると予想されます。
最初は「今学んでいることを仕事にできれば!」と意欲をもって講座などを受講していくのでしょうが、たいていのスキルには、「段階制」を設定しているところが多く、その最終過程まで到達しようと思えば、時間とお金、そして労力の多大なる投資が必要となってきます。いや、それでも完全にスキルをマスターしてしまえば、仕事として可能となり、投資分はそれできっと回収ができると考えて、前向きに学んでいる方も多いでしょう。そのように、「強い意志」と「何物にもゆるがない決意」をもって、きちんとしたビジョンを描いている方は、たぶん思ったとおりに実現できると思います。しかしながら、中途半端に「何となくこれが向いていそうだから、これが私の仕事になればいいな♪。。。」というような、きわめてあいまいな気持ちのままでは、やがて他人の評価やそれで活躍している人との差に目がいくようになり、「自分はやっぱりこれには向いていないのだ」と、傷つく前に自ら自分の価値を下げて、ほかのまた向いてそうに思えるものに転換し、いつのまにか“学びの果てしなき旅”にさすらうこととなってしまうのです。気がつけば、多くのお金と時間を浪費し、たくさん知っているけれど、何一つ「自信をもって」または「生き生きとして」できるものが自分にないことに気がつかされることになります。最悪、学んできたよいことも放棄したり、そのスキルやセミナー自体にけちをつけたり、「現実は甘くないのだ」とか、「人生はこんなもの」「しょせんは私は何をやってもだめ」とか、せっかく自分を拡大するためにしてきたことが、逆に縮小させてしまいかねない結果となります。また、そもそも「完璧」にこだわり過ぎると、いつまで経っても学んだことを活かして仕事をするということができなくなります。なぜなら、自分も人も世の中も常に変転しているからです。つまり、「完全」は追えば追うほど遠のいてゆくのです。だから、ある程度のところで割り切る寛容さ、決断力、勇気も、学びと実践の関係では大切となってくると言えます。
さて、やはり私が思うのは、学ぶことにはある程度目的意識が必要だということです。ひとつふたつの入り口くらいなら、特に趣味にできれば程度の考え方でよいとは思うのですが、複数のスキルの学習が続いている方は、そのスキルを学ぶことは、自分にとって何なのか、どう活かすのか、また何の目的で学ぶのかといったことを明確にすべきだと思います。漠然とただ、「これを勉強すれば自分自身が何か成長したような気分になる」だけでは、ある意味非常に危険です。いわば、タコ足のような多種多様な技術を学びつつも、結局どの足も獲物をとられえることがてぎず、自らの足がからまって身動きがとれないタコ(笑)のようなものです(たくさんの足があること自体を目的とするならば、それはまた別の魅力となります)。もちろん「8」本の足を自在に動かすレベルにあれば問題はないのですが、なかなか多くの人はそのように器用にはいかないものです。まずはタコの「本体」となるものを磨いてください。その本体がわからないから、いろいろと学んでいるのだ、ということでしょうが、それでも、「バランス」は重視すべきです。やみくもに学習するのではなく、自分にある余裕や資源の様々なタイミングを見計って、まずは何をしたいのか、どのようになりたいのかを方向性だけでもしっかりとした上で、世の中に各種開催されているセミナーや講座なりを申し込んでみてください。羅針盤のない船は、いつか難破してしまいます。ですから、どうしても何をしていいのかわからない人は、「自分の本質を知る」技術や、「自分の求めているものがわかる方法」を教えているセミナーなどから選べばいいでしょう。対人援助技術などのスキルは、当然のことながら、目的が「それをしたい」とわかってからのことになります。順序もとても大切なのです。さらにいえば、広く浅くより、ひとつのことを自信が持てるまで深く極める方が、実は応用が効くのです。
人生は長いようで短いです。メリハリをつけ有効に、集中と弛緩を「バランス」よく取りながら、学びをしてみてください。
投稿者 miyaoka : 22:15 | コメント (6)
2008年01月16日
予想外環境
先日久しぶりに旧友に会った時に、最近の子供の話に及びました。
今に始まったことではありませんが、多くの人に言われているように、最近の子供はゲームなど室内の遊びが中心になってきたことと、屋外では物騒な世の中になってきたこともあいまって、大人の想像以上に外で過ごす時間が少なくなってきているようです。とはいえ、まったく自然とふれあわないのか、外に行かないのかと問われれば、実はそうでもないようです。それは、親御さんが気を遣って(あるいは家族サービスとして)キャンプなどのアウトドアに連れて行く機会を増やしていることや、管理されたスポーツクラブに入部させるなどして運動をさせるようにしていること、さらには塾に通うために仕方なく外に出る(苦笑)こと等があるからのようです。
しかしこう書くと皆さん気がつかれるでしょうが、外に行くといってもその実態は、ほとんどが整備された場所や管理された施設に、プログラム・計画通りに行くだけだとわかります。つまりソフトバンクの宣伝ではないですが(笑)、まさに「予想外」のことが起きにくい環境にいることを意味します。いや、いろいろな意味で事故にあわないという“マイナスの「予想外」”のことから守るためには、どうしてもこうなることは今の世の中仕方のないことだとは思います。それでも、その分、“プラスの予想外”にも遭遇しないことになってしまいます。友達と遊ぼうと集まっても実際にはその遊びをするには人数が足りなかった・・・ということで意外な新しい遊びが即興で考案されたり、小さい体の者が案外、力が強かったことがわかったり・・・犬が突然乱入して必死で逃げたけどドキドキして面白かった(これはちょっと怖い?)などなど、そういったワクワクやドキドキの予想外の体験が、日常に強烈なインパクトと印象を与え、新たな発見や自分と人の可能性に気づくきっかけともなると思えます。もちろん最近のゲームもすごいので、それをしているだけで「予想外」の連続でしょうが、しょせん人間のプログラムの範囲では、意外性にも限界があるでしょうし、人の想定の範囲を超えた出来事が起こる自然界の体験に比べると、目に見えない感覚も含めての全体的な感じ方、残り方がまったく違うのではないかと想像できます。
だからと言って、今更過去のような過ごし方に戻れというわけではありません。今は今ですからね。バーチャルなら徹底的にバーチャルも推し進めればいいかもしれません。最近wiiというゲームが人気のようで、これなどは体感ゲームとして大人も子供も楽しめて面白いでしょうね。実際に体を使うことがわかりやすく反映されるというのが人気の秘密かと感じます。時代の流れとして、まったくの自然性や放置的な環境での体験はこれからますます困難にはなってくるでしょうが、その中でもたとえ人工的ではあっても、多様性と選択性の自由を失わないようにすればいいと考えます。ゲームの世界でも今までとは想像もつかなかった技術で、五感すべてをありありと味わえるリアルな旅行体験、瞑想、変身もの、さらには実体験レベルとリンクしながらの安全なバーチャルものや、実経験のデータがインプットされないと先には進めないようなものとかできてくれば可能性も広がる気がします。現実とバーチャルがいい意味で一体となり、本当の自分の成長とゲームのクリアーがセットになっていて、両方が必要条件というものもあれば面白いかなと思います。
子供の話に戻りますが、こういった世の中ですから、親御さんは子供さんの安全性にも配慮しながらも、なるべく「予想外」なことが体験できるような環境・体験を、少しの時間や空間でもいいですので与えることを意識されるとよいと思います。手の届く範囲内での自由行動の許可、自分で今度の家族旅行先を決めてくること、お小遣いや携帯使用料の管理など、いろいろと工夫はできると思います。
タロットでいえば「手品師」ということになるのかもしれません。創意工夫と興味や関心、実験、自分で世界を構築する、あるいは体験する第一歩というのが肝心で、「手品師」のカードがそれを示していますね。
投稿者 miyaoka : 11:36 | コメント (0)
2007年11月06日
親と子
ちょっと前の話になりますが、久しぶりにサッカー日本代表戦を観に行きました。
そこで遭遇したある光景。
私の席はひとつ上のランクのカテゴリーに接しているところで、私のいるこちら側のカテゴリーの席はいっぱいでしたが、あちら側のいい席の方は結構空いていました。そうして試合が始まった時、私たちの側にいた観客の中で、ある親子が、監視員が見ていないのをいいことに、テープラインを乗り越えて空いている上のカテゴリーの席に移動し始めました。最初はさすがに気になるのか、その親子(父子)は椅子席に座らず下の階段で腰を下ろして観戦していましたが、誰からもお咎めがないのを見てとると、堂々と椅子席に腰掛けて居座ってしまいました。その上、前の席も大きく空いていたので、その椅子の背もたれに土足で足を投げ出し、観戦する始末でした。
私はこの人たちを告発するつもりで書いているのではありません。問題は父子であるということなのです。最初にルールを無視する行動を取ったのはその親でありました。子供のほうは、ちょっとびくついてはいましたが、お父さんの行いを見て大丈夫なんだと思い、お父さんのあとを着いて行っていました。足を投げ出したのも、お父さんがやりはじめたからです。だからこの子も、「やっていいことなんだ」と、安心して父親の真似をしたのでしょう。結局、最後までその親子はそこで観戦し続けました。おまけに、父親がビールの空きコップや食事をしたゴミを、席にそのまま置いて帰ったので、また子供も同じ行動をして、ゴミを置き去りにしていました。
まさしく「子は親を見て育つ」ということが、この場合は悪いほうで実現されたわけです。本当に恐ろしいことだなと感じました。児童相談所にいた頃も、いわゆる負の連鎖ではありませんが、不幸な生い立ちや愛情の不足した環境で育った子供が親となり、またその親が子供の養育で支障を来して、子供にも問題を生じさせているというケースに何度か遭遇しました。
子供をよくするのも悪くするのも、親御さんの教育や行動にかかっているということを、何気ないことから改めて気づかされた次第です。
カモワンタロットをされている方には・・・
タロットマンダラに当てはめてみると、「法皇、吊るし、太陽」の列かもしれません。「太陽」から下に下りてくると見ると、「太陽」は純粋な何も染まってない子供、そして親のふりを観察する「吊るし」、最後は教育(伝統や習慣も意味する)である「法皇」です。これはあくまで個人的な当てはめの一例であり、この解釈の正誤はわかりませんので注意してくださいませ。
投稿者 miyaoka : 10:01 | コメント (4)
2007年06月14日
FM出演と団地
先日の6/12(火)に、お世話になっている占い館主宰の方のお取り計らいで、FM千里という大阪の地域FM局に出演させてもらいました。
FM千里は、今年の4月に開局したばかりのコミュニティ放送局で、放送範囲は豊中市と吹田市がメインで、いわゆる「千里ニュータウン」と呼ばれる地域を主要な対象区域としているようです。
ここで毎朝流されている「今日の占い」というコーナーに、私がたまに出させてもらっている占い館のメンバーによる占いが提供されている関係で、出演が舞い込んできたものです。ちなみに私もこの占いコーナーの一部を担当しております。
私が出演させてもらったのは、「千里の目安箱」(こう聞くと、何か、注意や弾劾されるような印象を受けますが^^;・・・普通に人を紹介するコーナーのようです。。。)というお昼前の番組の一コーナーでしたが、20分という時間で、パーソナリティの方からのご質問にお答えしながら、占い師という紹介でしたので、その場でパーソナリティの方を占うなどさせてもらいました。人は緊張すれば、ふたつの反応になりがちです。ひとつは、上がってしまい、ガチガチとなってしゃべられなくなってしまう反応、もうひとつは興奮して、舞い上がり、やたらテンションが上がってしまう反応です。私の場合、あとで記念にと録音されたディスクを家に帰って聞いてみましたが、完全に後者でした。まー、アホほどしゃべっておりましたね。パーソナリティの方の進行も無視状態という感じでしょうか。汗、出まくりデス。。。。
パーソナリティの方の音声はとてもクリアーで歯切れが良く、何を語っているのか明瞭に聞き取れますが、私の言葉はくぐもっていて、時々マイクから離れるかのように、聞こえなくなっていました。ひと言で言えば、何言っているのかわからんぞ! という感じです。私はタロットの講義をすることも多いので、人前で話す機会はよくあるほうといえますが、こんなしゃべりでは、聞いている人はたまらんだろうなぁ・・・とかなり落ち込みました。冷静に自分のしゃへりや声を聞いてみるというのも、よい勉強になります。今度はもっとましに話ができるようになろうと・・・誓ったのでした。
ところで、千里ニュータウンといえば、ずいぶん昔に開発されて、いわゆる「団地」というものの先駆けとなったところですよね。実は私も、とある「団地」で育った口です。団地というと、「画一化された味気ない建物が並ぶ人工的な町」というイメージが浮かびますが、私のように団地で育った人間には、それなりに団地というものに郷愁があるんですね。外から見るとまったく同じように見える風景も、その団地のひとつひとつの建物の違い、団地のあいだ間にある公園のわずかな草や遊具の雰囲気による差違、団地の間の道の表情、マーケット・スーパーのにおい・・・やはりそれぞれに色があり、微妙な“場所の性格”といったものが感じられるのです。それは、普通の住宅地で育った方と同一のものといえるでしょう。のっぺらぼうのような「団地」でも、住んでいれば、やはりそこの「空気」によって育て上げられるものなのです。
ただ、私の育った環境では、時代もありますが、まだ開発されていない地域に田んぼや自然が残されていました。その人口的な町と昔からの風景・自然とのギャップがあったからこそ、まだ情緒の形成にはよい影響が与えられる環境にあったと思えますが、もうまったく見渡す限りの人口街では、やはり単一的な感情や余裕のなさ、あるいは逆に刺激が少ないといった感覚にならざるを得ない部分もあるかもしれません。
千里ニュータウンのような「団地」も、建物の老朽化と住民の高齢化が進んでいると聞きます。私のかつて住んだ「団地」も、今は千里と同じような状況で、実際に行ってみますと、かなりの寂しさを感じました。しかし、人がそこに住む限り、かつて私が感じたように、土地土地への思い出や感性は生じます。再び、こういった街が再生し、その生まれ育った街に愛着を感じながらも、大人として自分と地域に新たな可能性を感じて戻ってくるような、そんなよい循環性が出てくればと、かつての団地っ子の一人としては願わずにはいられませんでした。
投稿者 miyaoka : 16:04
2007年05月18日
自分の世界と他者
またまた、久しぶりの更新になってしまいました。。。えーと、私も人間なので、落ち込んだり、調子がいまいちの時もあったりします。
しばらく、ちょっとそういうタイミングに陥っていました。タロットをするようになって、ずいぶんと自分自身への尊重や自信も出るようになりましたが、以前の私はうつ病にもなったこともあるくらい、非常に落ち込みやすく、ナーバスであり、すぐに自己嫌悪に陥ったり、逆に自信とは異なる妙なプライドや対抗心というものも出ておりました。
まあ、そんな名残がまだありまして、時々周期的に何かのことで、とても疲れてしまう状態が出現いたします。こういう世界に足をつっこんでいますと、よくいわれることに、「今の(自分を取り巻く)世界は自分が創り出している」というのがあります。つまり、「すべての原因・要因は自分にある」という考え方です。この要素の中には、「同じものは引き合う」という考え方も含まれます。例えば、自分が良い状態ならば、周囲の環境もよくなってくるというもので、反対に自分の想念がネガティブになっていると、回りもおかしくなってしまうということになります。皆さんもそういうことは思い当たりませんか? 絶好調な時は何をやってもうまくいく感じがして、信号さえも引っかからずに青信号ばかり、逆に、何か仕事などで失敗したと思ったら、車にひかれそうになったり、くじを引いたらスカはがり。。。というような運の悪さが重なってしまうような体験...これらがそうなのですね。
「じゃ、自分の思いを無理からいつもバラ色にすればいいの?」 ってことになるのでしょうけど、人間、これが至難の業です。タロットカードには“おろかもの”と書く「愚者」というカードがありますが、この「愚者」のように、ある意味、おろかもの・バカになってしまえば、こだわりも何もなくなって気持ちはいつも明るいまま、まさにバラ色状態かもしれませんが(ゆえに「愚者」は非常に前向きで、気楽かつ強大なカードです)、日々生活を送っているわれわれには、なかなかそうなれないところに問題がありますよね。
そう、頭でわかっていても、感情や気持ちが納得しない、そんなに自分の思いや状態をコントロールできたら苦労はねぇよ。。。というところに、いくら「現実は自分が創っているんだ」と納得しようとしても、難しさがあるわけです。私自身も初めに述べましたように波がありますので、その気持ちはよくわかります。
そんな時、役立つのが自分ではなく、他者なのです。えっ、「結局自分の世界は自分が原因」と言っておきながら、他人を使うの? というおかしなことになってきましたが、ここが人間、一人では生きていないことの証しにもなります。「現実は自分が生み出している」としても、自分だけでこの世界が成り立っているわけではありません。だから、逆にいえば、他人や自分以外の働きかけを、自分の世界を変えるような方向にもっていけば、自分が変わり、結果的に「世界」も変わるという仕組みです。
誰にでもある簡単な例を示しましょう。落ち込んだ時、人はどうしますか? 悶々と一人で悩んで過ごす・・・という人もいるかもしれませんが、気分転換に好きな音楽を聴いたり、旅に出かけたり、一番よくあるのは、友達や親しい人になぐさめてもらう。。。というようなことではないでしょうか。これは、そうすることで、自分の内面を無意識的に変えようとしているともいえます。外部からの刺激(癒し的なものでも外部からの働きかけであると「刺激」ととらえます)により、内面がいい方向に変化し、それが「自分の世界」に波及して、同じものを引き寄せ、結果的に「現実」も変わるというメカニズムですね。この場合、とても効果的なのは、モノより感情に訴えるもの、つまり雰囲気とか、あえていえば「人間の心」が一番能力が高いといえるかもしれません。だからこそ、友人やパートナーに困った時、相談したり話をしたりするわけです。最近の私の例でいいますと、落ち込んでしまった時、妻からの励ましがすごく効きました。いつもはあまり意識することのない妻への感謝の気持ち^^;も、あとでとても出たことも述べておきます(苦笑)。
このように、だからこそ人間関係は普段から大切になってくるのです。自分が困ったとき、本当に心配してくれる友人やパートナーを持つことは、自分でコントロールできない自分の意識を、外部から影響を及ぼすことで逆に変えていくという意味でも、重要な人たちとなってきます。人は「マクロの中のミクロの自分を認識せよ」といわれますが、そのためにはマクロ的な、最小単位の人間関係やつながり、支え合いを認識することも大事なのかもしれません。
とはいえ、自分は気分がいいのに、反対に妻からのひと言でたちまち地獄行き・・・という気分になることもあります^^;。外部からの働きかけによる内部の変換は、ケースバイケースで考えましょう(笑)。最後はやっぱり、自分のコントロール次第なのかもしれませんが...
この、普段は難しい「内部の変換」のことについては、別の観点からの考察と方法もありますので、それはまたの機会にでもご紹介いたします。
投稿者 miyaoka : 05:39
2007年03月28日
一本の、見えない道を見る。
もうすぐ4月ということで、新しい環境に身を置かれる方も多いことでしょう。
そこで今回は、この仕事に入る前に体験した、ちょっと不思議な私の転職(退職)話をしてみたいと思います。
私は大学を卒業して、最初に就職したのが某信用金庫でした。ところが、もともと当時流行っていた用語でいうと、“ピーターパン症候群”と言いますか、社会に出ることがとても怖い人間だったんですね。それまで、アルバイトなんかもしていたのですが、「就職する」ということに、何か自分が一生縛られるような、牢獄入りするような、非常な恐怖感があったのです。もしかすると、今ならニートとして引きこもっていたかもしれません。
とはいえ、就職しないわけにもいきませんでしたので、何とか遅まきながら就職活動を開始したのですが、やはりもともと就職する気が希薄な上に、自己アピールも苦手で、さらに活動が大幅に遅れたことで、面接の受付自体も進みにくい有様でした。また私の専攻する学部も、企業に受けの悪いということもマイナス要因でした。そんな時に、大学の就職コーナーの張り紙を見ていますと、同じ学部の知人が来て、「俺、銀行に決まりそうだ」という話をしてきたのです。何の策もない私は、「そうか、わが就職に不利な学部も意外に銀行関係はいいのか・・・」と勘違いし、それからというもの、銀行方面にターゲットを変えたのです。けれども、実は私は、数やお金の計算というものが大の苦手で、古い人にはわかるでしょうが、「ハクション大魔王」のごとく、数字を見るとクラクラしてくるタチなのです。そんな人間が銀行に就職なんて、土台おかしな話だったのです。
それでも人間の運命とは数奇なもので、銀行はダメだったのですが、信用金庫には最終選考まで残り、内定をもらってしまったのでした。これは私という人間を評価してくれたわけではなく、どうやらたまたま人手不足みたいで、大卒も少ない状態だったので、入れてくれたみたいなものです。
さて何とか信用金庫に就職が決定したのは良かったのですが、やはりピーターパン症候群の上に数字アレルギーという決定的な欠陥を持ちつつ、「信用金庫」というありえない所へ働くことになったために、実際の結果は明白でした。かろうじて研修は持っていたのですが、ある支店に配属されてからは、たちまちのうちにめげてしまい、お金はなくすわ、開店中の殺気立つ受付お姉様の合間を縫っての機械作業などにもへこたれるわで、情けなくもわずか三ヶ月という期間で退職するはめとなってしまいました。そんなその信用金庫なのですが、ここは結構美術や芸術好きな風潮があり、その点は私は好きだったのです。それで、その時その信用金庫が新しく建設していた本店ビルがあり、完成の暁には、店舗前に彫像を置くことを予定していたのでした。けれども結局私は、その本店完成前にそこを辞めてしまったというわけです。
その後、ある理由で公務員を目指す決心をして、何とか公務員試験に合格して某地方公務員となることができ、どうにかこうにか働いていました。しかし私の経歴紹介でも書いてますように、心身の不調に陥り、神経症うつ病になったことで人生が転換、タロットに出会い、公務員の退職も決意することになりました。
実はこれまでのことは前置きといいますか、不思議な体験というのは、ここからの話です。(すみません、長々と・・・)
さて、私の最後の公務員の職場というのが、奇しくも最初に私が就職をして配属された信用金庫の支店の近く(同じ市内)だったのです。
公務員を退職する最後のその日、その所属長さんたちと挨拶を交わして、私は寂しくも、しかし何かさっぱりしたような気分で、職場を辞しました。しかしまだ一抹の不安といいますか、世間では考えられない選択をしてしまった自分に、某かの後ろめたい気持ちと、もっと辛抱して耐えて踏みとどまるべきではなかったのか・・・という自責の念もあったのは事実です。そんな心持ちのまま、バスに乗り込みました。駅までのわずか5分ほどの車中に、ぼんやりと私は車窓をながめていました。
その時です。突然、私の目に、ある彫像が飛び込んできました。それはカドケウスという杖を持つ「ヘルメス神」の像でした。「ヘルメス」といえば、ギリシア神話では「伝令の神」であり、また別の意味では「錬金術」や「神秘思想」の祖といわれる特殊な人物を指すのですが、いわば私のタロットもそれに深く関連するものであり、タロットとヘルメス(思想)は、切っても切れない関係にあるといえるものでした。そして何と、そのヘルメス像は、私がかつて在籍していた信用金庫の、あのまだ当時は未完成だった本店の前に立つ像だったのです。これまでいつもその前を通っていたというのに、なぜ気がつかなかったのでしょう? さらに、なぜか驚いて瞬間に時計を見てしまったのですが、時計の針はデジタルで「11:26」を示していました。11.26...実はこれは私の誕生日の日付なのです! 単なる偶然?? そうかもしれません。しかし、その時の私は、確実に「この道でいいんだ」という実感を得た気がしました。
「秘教」の伝説的な人物であり、「伝令」の神であるヘルメス。それが、私の公務員として「最後」の所属地であり、また「最初」に就職した企業の本店にある像であったことが、すなわち「始まりであり、かつ終わりであり、そしてまた始まりである」という永遠の循環、メビウスの輪、無限大のレムニスケートを象徴していたように思えます。何か大きな存在が、ヘルメスのカドケウス(ヘルメスの持つ二本の蛇がからみつく杖)をシンボルとして、私に信じた道を進む勇気を与えてくれたように感じました。と同時に、運命の不可思議さを知った瞬間でもありました。
皆さまも紆余曲折、人生の道にいろいろあるでしょうが、そこに流れる一本の見えない本道のようなものが、誰でも確実に存在しているのだと考えられます。それはこうした不思議なシンクロニシティ、偶然のような必然によって、私たちの目の前に垣間姿を見せるのかもしれません。そうとらえますと、今度、新しい環境になられる方も、それぞれにその場所・その経験において自らの一本の道につながっており、深い意味がきっとあるのだと思われるのです。
投稿者 miyaoka : 22:23
2006年10月31日
恋愛処方箋
占いとしてタロットでお店など出ておりますと、やはり「恋愛問題」の相談を多く受けます。人間関係の中でも、この「恋愛」というものは、本当になかなかやっかいなものですよね。
何がやっかいかと言っても、それがうまく言っている時は天国でもいるかのようなバラ色の心持ちになれるのに、反対にうまくいっていない時は、地獄のような状況を呈することがあるということです。時には、色恋沙汰として、人死まで出てしまうことすらあります。まさに天国か地獄、究極の親和か怨憎の極地か、そういった両極端の心境を現出させてしまうのが恋愛です。まことに、人間には大変な代物です。(人生の学びとしては、どう転ぶにしろ、良薬だとは思います)
占いでうかがっていますと、どうも恋愛状態にある方は、当たり前のことですが、相手の気持ちを推し量って、それが自分にどれくらい関心があるのかで気に病んでいる人がほとんどです。恋愛とは、人と自分の好き嫌いの話ですから当然ですけども。。。「あの人は好きでいてくれているのか・・・」「あの人はどんな風に私のことを思っているのだろう・・・」「どうして連絡がないのか?」「これって、私のこと、好きってことですよね?」「こうすれば振り向いてくれるのかな」・・・etc。
とにかく、いろんなことを恋する人は巡らせてしまいます。ここで、恋愛に対する最大のアドバイスをしてみたいと思います。それは。。。
「人(相手)の心は、(自分が)コントロールできない」ということです。
でも、そんなこと言っても気になるから恋愛じゃないですか!と反論されそうですが、その通り、そうはわかっていても心が言うことを聞かない、気になってしまう、から悩むところに恋愛の苦悩があるのはわかります。
しかし、それでも、特に片思いや相手の行動が不確かで悩まれている場合には、「“人の気持ち”はコントロールできない」ということを肝に銘じてみてください。人の思考能力は偉大なものですが、それだけに勝手にあれこれ想像をし、考えが暴走していきます。「あの人は、私のこと、どう思っているのだろう?」「連絡が少なくなったのは好きな人ができたからだろうか?」「今の時間、連絡できるはずなのに・・・どうしてないのかな・・・」など、対象の相手のことや状況を、人は無限に妄想します。その想像・妄想が不安や疑念、確認したいあせりや欲求を次々と生み出していきます。そして、本来最初にはなかったそういったマイナス的な思考が、想像した自分自身を苦しめることになっていくのです。
「こうなってほしい」と相手に願っても、それは叶うかどうかはまったくわからないことです。電話をしても、メールをしても、プレゼントを贈っても、相手の心が自分に向くとは保証されるものではありません。人の心を操れる(コントロール)ことはできないからです。人は自分の心は自分で作り、選択をしていくものです。他人が人の心を作り出すものではありません。人の心に何らかの影響は与えることはできても、選択するのは相手自身の心であり、相手の心を自分の思いとおりにすることはできないのです。
だから、ただ自分でできる努力ををして、相手の気持ちがどうなるのかは自然に任せる(相手に任す)しかないのです。けれども、わかっていてもできないのが恋の常・・・。ならば、わかるまで突き進むのもまた道だというのもあります。ストーカーは困りますが、中途半端にあきらめてしまうより、徹底的にがんばるのもいいでしょう。最後には、やがて相手の心はやはり相手のものであることがわかってきます。
「恋愛処方箋」ネタは、シリーズで書いていくかもしれません。
投稿者 miyaoka : 01:45
2006年08月15日
炭酸水
このところ、ずっとHPの更新など滞っていますが、これはちょっと前にしていた仕事でかなり心身疲労してしまいましたので、充電期間を設けているためです。申し訳ありません。いましばらくお待ちください。リフレッシュ完了しますと、また新たなバージョンにて、皆さまにタロットを使った様々なものがご提供できると思います。さて、しかし、毎日暑いですね。こんな日は
冷えた炭酸水がお勧めです。炭酸水といっても、砂糖入りのサイダーではありませんよ。ミネラルウォーターに炭酸が入っただけのもの(あるいはもともと天然水に炭酸が入っているもの)のことです。
昔、小学生の頃、サイダーを買おうと間違えて炭酸水をスーパーで買ってしまった経験があり、その時は「これ、サイダーがどうにかなったんだ(甘くないので)、不良品だ!」て飲んだ瞬間思ったものですが、それからも大人になっても、「なんでこんなもの、特に外国で好まれるのだろう・・・」と不思議に思っていたものでした。
それがタロットの講義受講のため、フランスへ行った際、食事についてくる水が炭酸入りが多くて、それが実に現地の料理と合うことを実感したんですね。油濃いものや、肉類などの料理と一緒にとると、それらを炭酸がシュワ~と流し去るような感覚があって、さっぱりするんです。だから外国でよく飲まれていたわけです。それ以来、炭酸水のファンになり、フランスにいる間中は、なるべく料理の時、「ガズーズ」、つまり、炭酸水を注文していました。日本に戻ってからも、洋食や中華の時は時々飲むようにしています。
で、夏です。普通の大人の人は、冷えてビールで一杯。。。あ、ーなんて幸せ、のどごし爽やか、ってどこかのCMみたいになるのでしょうが、私は残念ながら酒が飲めません。かといって、ジュースとかお茶とかではいまいち物足りない。清涼さが出ないのです。水ではそれこそ、のどごし不満。ということで、登場するのが炭酸水です。これはいいですよ。砂糖がないから女性の方もカロリーを気にしなくていいですし、シュワシュワした感覚が、いかにも「何かを飲んでいる、潤わしている」という雰囲気になります。もちろん夏にはつきものの、炒め物やビリ辛料理にも合います。風呂上がりにも特にお勧めです。
皆さんも、炭酸水、いかがですか? 暑くて気の抜けた日々に、まさに「気」の利いた瞬間を呼び起こさせますよ。軽いうつにもいいかも?(医学的根拠はありません) 私は思います、たぶん、四大元素の「風」の作用が炭酸水にあると。ではまた。残暑お見舞い、申し上げます。
投稿者 miyaoka : 23:22
2006年04月06日
変化の季節にあたって
4月になりました。新年度の始まりですね。学生の人も社会人の方も、新しい環境に飛び込んでいる人たちが多いことでしょう。
新しいことはわくわくしたり、フレッシュな気持ちを抱かせますが、変化というものに弱いタイプという人の場合、かなりのストレスにもなる季節だと思います。かくいう、私が実はそうでした。今でこそ、タロットなぞ扱い、いわば少し変人として生きています(笑)ので、変化を楽しめるようになってはいますが、昔は極端に「変化」に弱く、慣れた環境でないと能力を発揮できない典型的な神経質タイプでした。(今でもまだかなりナーバスですが。。。)
さて、こうした人間に生まれついてしまった場合、あまり転勤が多かったりと、環境の変化が激しい職場などはお勧めできません。できれば専門家か技術職として、同じ状態で打ち込める環境が望ましいと思います。しかしながら人生は修行の場です。また人間には慣れがあるので、あえてそれらにチャレンジして、自分を変え、順応性を養うことも大切なことでしょう。人間にはそれが可能だからです。
ただ、変化に弱かった私からアドバイスさせていただきたいこともあります。春のこの季節、そもそも体の構造的にも体が開いていき、落ち着かなくなるという精神状態になりやすいといわれ、それに持ってきて「新年度」「始まり」という社会慣習が合わされ、いわば外からも内からも“激変”が要求されているという事態になっています。それでも皆さん耐えて順応できるのは、人間の能力のすばらしさなのですが、ふたつの点でのバランスが崩れると、危なくなると考えています。そのふたつとは、月並みなのですが、「心」と「体」の負担の許容量のバランスのことです。
環境の変化があっても、そのふたつのバランスにおいて許容量の範囲であると、人は安定さを何とか保つことができます。しかし、どちらかが許容量オーバーな状態になってしまうと、ピンチが訪れます。
具体的に言いますと、「体」は身体的疲労度であり、「心」は精神の疲労度を示します。つまり、体が疲れていても、心が安心感に満たされていると大丈夫であり、また逆に心にストレスを抱えていても、身体的に疲労が少ない状況では、まだ赤信号ではないということです。ですから、よくあることなのですが、精神的に疲れているからと言って、それを解消しようと睡眠もとらずに遊びまくっていたら、身体的に疲労度が増して、バランスが崩れ、逆効果ということになります。
ただこの両者は密接に関連しており、切り離せるものではありませんから、心が疲れれば体も疲れてくるという作用が生じ、結局のところはどちらも健康でなければ問題となってきます。それでも、この環境の変化の激しい季節に早く慣れようと、どちらかを犠牲にしてまでやりすぎるのは危険だと思います。特にメンタルヘルスの面でいえば、本当に「ほどほど」ということを念頭に置いていただくほうが、長い目で見ればあなた自身のためになるでしょう。身体的健康・不健康は目に見える形が多く、回復の仕方も効果を自分で確認しやすいのですが、精神的・メンタル的には目に見えないだけに、周囲からも誤解を招きやすいですし、自分自身も状態をつかめることがしにくいものです。それだけに留意していただきたいと思います。
まずは疲れたら、気心の知れた友人・家族に弱みを話してストレスを軽減し、そして食事や睡眠など身体的なケアーにも注意すれば、ある程度の変化には対応できるでしょう。精神的にちょっと大変だなと感じたら、専門家を頼るべきです。相談することに躊躇しないほうがよいです。友人や家族だけでは、その方たちにストレスがたまる場合もありますから。それから、心と体の疲労度の許容量数値を普段から上げていくことをしていると、変化への対応度合も上がっていくということにもなります。人間関係のスキルを学んだり、体力アップに努めるというようなことですね。
仕事では、あなたがいなくても実は代わりの方で回っていくものです。ですが、あなた自身はかけがえのない存在であり、あなたがここにいること(生きていること)は、他の誰にも代わることはできないものです。自分で自分を痛める必要性はありません。責任感は大事ですが、その取りすぎには注意いたしましょう。
投稿者 miyaoka : 10:36
2006年02月19日
オリンピック
トリノの五輪です。日本選手のメダルはまだなく、批判的な声もささやかれはじめる今日のこの頃ですが、競技の残っている皆さんにはがんばってもらいたいものです。
私には「トリノ」といえば、
サッカーのユベントスというチームがすぐ浮かぶのですが、おそらくイタリアの人たちには、日本で開かれた長野五輪時のような自国五輪への大注目はないような気もします。。って、五輪好きはもしかしたら、日本が一番かもしれませんね。これには報道が大きく影響しているのでしょうね。選手たちの応援に非常な宣伝もいいのですが、「感動をありがとう」みたいな姿勢だけではなくて、もっとシビアな視点といいますか、冷静に実力やその競技における世界情勢と日本の位置などの分析をしてほしいものだと思います。商業広告ベースで流されるマスコミとしては、仕方ない面はあるのかもしれませんけど。。。これは、サッカーを見ていても思うことです。
とはいうものの、五輪ではたしかにミーハー精神も出るのも事実です(苦笑)。 個人的にはカーリング競技が面白いですね。長野五輪では、原田選手を中心とした日本ジャンプ陣の物語が感動を巻き起こしましたが、私は男子カーリングのアメリカ戦、激闘の末わずか数センチで勝利を逃した敦賀選手の涙が一番印象的でした。当時、私と似たもの同士であった友人とも、「あの戦いは感動した」と電話で話していたものです。あの、ピースがはまるような感覚がよいのかもしれませんし、タロットでいえば、「3、女帝」というカードで象徴される計画・創造性というものが、氷上の盤面にて繰り広げられる世界だからなのかもしれません。
日本のカーリングって、常呂町という北海道の五千人にも満たない町がメッカとなっているようで、代表選手もここから出ているんですね。そんな選手が巨大競技人口を誇る北欧の国々と真っ向からぶつかるのを見ているのは、とても興奮させられます。まさに、「おらが村の兄ちゃん姉ちゃんたちが、世界の五輪という舞台で戦っている」わけです。これを聞いた時、「映画ネタにもってこいだよなぁ」と先述の友人と昔、話していたのですが、やっぱり皆さん同じ事考えられるわけで、今「シムソンズ」というソルトレーク五輪の日本女子カーリングチームをモデルにした映画が公開されているようですね。予告編を見ますと、なかなか面白そうです。
五輪、ほかにも私と同じ年齢で下が同じ名前の、越和宏選手のストーリーにも心を動かされています。11位という残念な結果でしたけども。。。ミーハー五輪話でした。
投稿者 miyaoka : 13:49 | コメント (2)
2006年01月26日
生き方・コミュニケーションの技術を
新年になってかなり経ってしまいました。ブログを更新しようと思いつつも、結局今までできませんでした。どうもすみません。
さて、「お知らせ」の方でも掲載しておりますが、来月スキップ・スワンソンさんの「コーチング/コンシャスリビング・スキル」という講座を、西宮市で開催させてもらうことになりました。スキップさんとは
タロット大学の講座を受けるようになって知り合ったのですが、スキップさんは日本に東洋の叡智を学びに来て、逆に西洋の内的伝統・奥義に出会われたというまことに面白い人生を歩まれている方です。その日本語能力は非常にすばらしく、カモワンタロットのグランドマスターであるフィリップ・カモワン氏の英語(カモワン氏はフランス人ですが、英語も堪能です)を、それは実に見事に通訳してくれます。私はスキップさんの通訳する言葉を聞いて、感動すら覚えたものです。また通訳だけではなく、彼自身のタロットの読みも本当にすごいものがあります。そんな多彩なスキップさんの本分ともいえるのが、この「コンシャスリビング・スキル」を伝える講師としての部分なのです。スキップさんを魅了し、人生をかけて伝えようされているこのスキルを、私も学んでいる途中ですが、こうした“意識的な生きる技術”を、もっと前に習うことができていたなら、どんなに人生は楽だっただろうかと考えることがあります。“楽”というのは、“安易な”という意味ではありません。それどころか、無駄に力の入らないもっと充実した人生が歩めたのではないかというものです。しかしそれもまた、それまでの自分の人生であったわけで、後悔はしていません。
とはいえ、私が痛切に感じるのは、「コンシャスリビング&ラブ・スキル」に代表されるような自己尊重、人間関係、目標設定と選択・行動の意識的な生き方の話を、学生時代に少しでも教えてもらうことができたのなら、ずいぶんいい意味で物の見方が変わっていただろうと、とても惜しい気持ちがすることです。小学校時代、道徳の時間で自分や社会とのつきあい方を最初に学ぶわけなのですが、それから以降は、もっと年齢に相応した「生きる方法」の授業は教えられた記憶がありません。もっとも先生個人の思いや経験と、先生と生徒の人格的交わりやクラブ活動を通して学んだ方もいらっしゃるでしょうが、大方の人は、やはり「生きる」方法のソフト面についてまで習った覚えはあまりないでしょう。
せめて、自分は自分であり愛し愛される存在であること、だからこそ自分が自身を受け入れ、本当の自分を見つけてそれを表現していくことが大事であることが教育の過程で教えられるとしたのなら、それだけでかなりの今起こっている若者達の問題が解消されていたのではないかと思えます。自己尊重を考えるとき、そこには当然、次には相手の尊重も自然な移行段階として入ってくるからです。また、人生は自分が選択したことの積み重ねでできており、それゆえに自己の責任と可能性に満ちていることが示されると、一刻一時の重みと、生きる希望を持つことが可能になるのではないかとも考えられます。おそらく、古代社会にあっては、現代人から見るととても宗教チックに見える教えの中に、意識的に生きる智慧と方法が哲学的にきちんと伝えられていたのでしょう。それは結果的に、人々の心の平安につながるべきことであったのではないかと想像されます。
自分の内面を見たり、他人と協調していく意識的な方法などあるわけがないと現代人は思いがちですが、勝ち負けや善悪、信念・思想などによるものではない、自分自身と他人とのコミュニケーションのシンプルな技術を、もっと学生時代から学んでいく仕組みに社会はなっていくほうが、健全ではないでしょうか。単純に、コミュニケーションの仕方さえ満足に習うことができない状況なのは、寂しいことだと思うのです。
投稿者 miyaoka : 00:29 | コメント (2)
2005年11月25日
髪を切って、未来と出会う
だいぶん髪が伸びてきたので、切りに行きました。神戸の六甲に越してきてから通うようになったお店なのですが、そのお店の主人の話から、不思議な縁を感じるものががあったのでお話します。(タイトルの割には、小さな話なので恐縮です・・・)
実はこの店を発見したのはインターネットからだったのですが、当時私は兵庫県の明石市に住んでおり、わざわざこのお店まで足を運ぶのは、やや距離のあるところだったのです。結局当時は、一度訪れたきりで、やっぱり近くの明石市内のお店に戻ってしまいました。そうこうして、2年後、私は神戸市の今のところに移ってきたわけなのですが、引っ越ししてからふと、その店を思い出し、こうしてまた髪を切ってもらうことになりました。で、そのお店の主人、「お客さんの住所のマンションのオーナー、実は古くからの知り合いで、私のところに一家全員で来てくれるんですよ」という話をされました。いや、これだけだったら、「へぇー、そうなんですか」ということだけですが、よく考えてみますと、このお店を知ったのは、まだ私が他地域にいた時代ですし、今の賃貸のマンションに入ったのも、別にこのお店を介してでは当然なく、単に不動産屋さんで紹介してもらったものです。またこのお店と私の住む地域とは明石市ほどではないにしろ、同じ地域とは言い難い場所です。なのに、偶然私の入居したマンションのオーナーが、このお店の常連というか知り合いの人だったなんて。。。これを思うと、このお店に昔行ったのは、今の未来の自分と、すでにつながりのあることだったのか、とさえ感じます。そりゃ、同じ神戸市内だし、そんな偶然、不思議でもなんでもないわさ、と思われるかもですが、タロットなどやっている身からすれば、「不思議な偶然性」というのはとても興味をそそるものなのです。
そう考えますと、今の状況の中にも、気づかない「未来のあること」につながっていることが、きっとあるのでしょうね。何か大きな存在というべきものを感じます。
投稿者 miyaoka : 14:23 | コメント (2)
2005年11月21日
らせん~ある講演より
新聞で知りましたある講演会に行って参りました。ケイ・ギルバートさんという死生学の専門家の講演です。なぜこの講演が気になったのかと申しますと、
実は、ギルバートさんが関西での講演を兵庫県・神戸にて開催された理由にもあるのですが、やはり阪神大震災や尼崎列車事故などで、兵庫県では身近な大切な人を亡くされた方が多いだろうと考えられることで、心の問題を扱う兵庫県に住む人間として、今後そういったクライアントの方と対することも予想されることから、自然と足が向いたのが理由でした。
この講演の中で特に印象的だったのは、大切な人を亡くした悲(哀)しみ・心の痛み(これを英語では“グリーフ”と表現されていました)を和らげていくもののひとつに、「らせんの動き」をするということが語られていたことです。「らせんの動き」というのは、そのままらせん状にに運動するという意味ではなくて、もっと深い意識的な意味合いです。しかしながら、ちょっとこちらの理解力のなさも手伝って、うまく説明できるほどギルバートさんのおっしゃった意味を咀嚼していないのですが、だいたいの印象で言わせていただきますと、「らせんの動き」とは、大切な人を失った悲しみを受け入れ難くも徐々に受け入れ、ある種の落ち着きが感じられるようになった時に、それまで自分の内的な世界で留まっていた悲しみの状態から、やがて少しずつ外に向けて活動(ボランティアなどの)を始めていき、悲しみと癒しの状態を行きつ戻りつしながらも、次第に意識と心の世界が拡大上昇されていく(動きの)ような状態のことではないかと、私は受け取りました。その動きになるきっかけは、つらいながらも、悲しさを感じてつらくなっている自分自身を許すことにあり、また他人や自然を愛し、許せるようになることのようにも感じました。「らせん」という言葉と動きは、タロットや宇宙のことを学んだり、ふれたりしていると必ず出てくるものであり、さらにこのギルバートさんのご説明では、「らせんの動き」が、実は「心を磨くチャンスにもつながる」というお話もあり、より感銘を受けた次第です。
私自身、とてもグリーフと呼べるような身近な大切な人を失う悲しみの体験はないのですが、最初にふれさせていただきましたように、災害を経験したここ兵庫県では、少なくない方々が不慮のことからそのようなグリーフの状態の中にあることが想像されます。経験もしていない者がなかなかグリーフのことを語ったり、そのお心を癒していくことなどできないとは思いますが、自分自身としては、せめて地震の被災者として、また人の相談をしていく者として、死と生のこと、死別で残された方々の大変思いの存在、命の尊さなどを忘れず、考えていこうと思っております。
投稿者 miyaoka : 00:11 | コメント (2)
2005年11月18日
左右東西、そして空気
とあるワークショップ参加のために、東京と横浜に行ってました。関西人というのは、とかく首都に対すると自分のアイデンティティを確認したいのか
(ま、つまりはそれが田舎モノ・地方人である証拠なんでしょうね...)、よく関東との違いを見つけたりします。で、街を移動していて気になったのは、まあまたこれもよく指摘されていることではありますが、エスカレータでの人のポジションが、関東と関西では違うんですね。関西では、エスカレータの右に人が停まり、左側を急ぐ人のために開けておきます。一方、関東ではそれが全く逆で、左側で人は停まり、右側を開けておくんですね。これはなぜなのかはわかりませんが、もしかすると磁極のことが関係しているのかもしれません(笑)。て、それはないですかね?
不思議なものなのですが、しばらく関東にいますと、最初は違和感のあったエスカレータでの位置が気にならなくなり、逆に関西に戻ってきた時に違和感を覚えてしまいました。慣れというのもあるのでしょうが、思うにこれには、その土地が持つ“空気・エアー”のようなものが影響しているのではないかという気がしています。アストロロジー・占星術では、「サイン・宮(一般的に12星座といわれるもの)」という概念がありますが、これが例えれば“土地柄”のようなものだとも言われています。つまりその「サイン・宮」に太陽・月・木星などの「惑星」が入れば、そのサインの持つ特質に惑星が影響されるのだいうことですね。この「惑星」を「人」に、「サイン」を「土地」として置き換えますと、私は一時的にも関東の土地の空気に影響を受け、それがまだ体に残ったまま新幹線移動したので、関西でのエスカレータでの違和感につながったのではないかと想像できるわけです。
前に「月曜日に乾杯!」という仏・伊映画がありました。その中でベネツィアを訪れた主人公に、土地モノのおじさんが、町が一望に見渡せる屋根の上に主人公を案内をし、ヴェネツィアの景色を見せながら、「町には聖なる息吹、何かが存在しているんだ」というようなことを語るシーンがあるのですが、そういう町に宿るそれぞれの“何か目に見えない空気・雰囲気”というものが、どこにでもあるのだと思いますね。いわば、それを人格化したものが“土地の神様”、“土地柄”みたいなものになるんじゃないでしょうか。あ、エレベータの話からわけがわからなくなりましたが、つまりは、人はいろいろなことに影響されるのでしょうけれど、土地というか地域にもやっぱり知らず知らずに影響されるんだなということが、なんとなくエレベータポジションでの東西の違いから、感じたというわけなのです。
ところで、エレベータの人の位置関係、どこが左右の分かれ目なんでしょうかねぇ?やっぱり天下分け目の関ヶ原あたり? 名古屋ではどっちなのか、ちょっと知りたいです。いかにも「探偵!ナイトスクープ」ネタですが。(笑)
投稿者 miyaoka : 16:58 | コメント (4)
2005年10月11日
始まりということ 数から
今日から、「エムヴォレー」の正式な開店日ということにしました。「しました」って、実にいい加減な感じですけども、一応ちゃんとした理由はあります。とにかくHPの内容もほぼ完成することができましたし。(実はまだいろいろ残ってますけど。。。)
それにしましても、
今日は11日です。「1」が二つも並んでいるんですね。何かが始まる時って皆さん、どんな数や番号を想像しますか? やっぱり「1」であり、「1番」じゃないでしょうか。「0」という人もいるかもしれませんね。“一番最初”なんていう表現もあるくらいですから、「1」が皆さんの頭の中に思い浮かべる最も多い「始まりの数」ではないかと思います。
ここでふと不思議に思うのは、「1」という数だから、「最初」とか「始まり」などと思うのか、あるいは「始まり」というイメージからなんとなく数としては「1」が浮かんでしまうのか、鶏と卵、卵と鶏みたいな話になってしまいますが、普通は一から数える番号だから、「1」を「始まり」だと思っているんでしょうね。
ところが、ある古代の教えでは、これが逆なんですね。「1」という「数」そのものが「開始」や「始まり」、「新しいこと」「動いていく様」を意味しているというのです。じゃ「2」や「3」はどうなのでしょうか。「4」は「5」は・・・うーん、限りがないので、この辺でストップと。
このようにですね、何か皆さんがいつも何気なく見ている数字や数についても、たまにはそのイメージや意味を想像してみるのも楽しいかもしれません。あなたの「3」とあの人の「3」ではどんなイメージの違いがあるか、確認してみてください。こんなことでも、少しだけあなたをルーチンな日常から切り離してくれるきっかけとなるかもしれないのです。
えっ、数字に追われてそんな暇はない? いちいちうるさい? はぁ。。。大変失礼いたしました。
投稿者 miyaoka : 16:47 | コメント (2)